小倉藩の城下町、
長崎街道、屋形船の歴史
西小倉駅周辺、特に常盤橋がかかる紫川は、
小倉城下の歴史において「屋形船」が象徴する舟運文化と水辺の賑わいを伝える上で、非常に貴重な地域です。
江戸時代、常盤橋周辺は、小倉城の天然の堀としての役割を持ちつつ、長崎街道の起点として物流の拠点や遊興の場としても機能していました。小倉藩主や藩の要人が、迎賓や遊覧に使いました。これが最も豪華な「屋形船」の形態です。 * 物流・舟運の拠点: 常盤橋周辺は、物資を積み下ろしする**船着き場(河岸)**として賑わいました。 * 庶民の利用と風流: 裕福な商人や文化人が、納涼や観月、花見などの遊興のために船を利用しました。屋形船や舟運は、長崎や西国との交流という文脈で使われた可能性があり、単なる国内の遊覧船とは異なる意味を持ちます。
九州の玄関口「小倉の五街道の起点」街道ネットワークの中心: 江戸時代、常盤橋は長崎街道だけでなく、中津街道、秋月街道、唐津街道、門司往還といった**「小倉の五街道」**全ての起点(または終点)となっていました。小倉藩の初代藩主である細川忠興が小倉城を築城した際、武士の居住区と町人町を結ぶ大橋として架けられたのが始まりです。九州咽喉の地: このため、小倉は九州における交通・物流の「喉元」とも呼ばれる要衝となり、常盤橋はその中心として常に賑わっていました。
「シュガーロード」の始まり、砂糖文化の伝播: 長崎街道は、鎖国下の日本で唯一西洋との窓口であった長崎から、砂糖をはじめとする異国の文物や情報が江戸へと運ばれた道でした。常盤橋は、その**「シュガーロード」の始まりの地**であり、長崎から運ばれた貴重な砂糖が九州各地や本州へと広がる第一歩でした。
常盤橋は、多くの重要な歴史上の人物が行き交った舞台です。参勤交代: 九州各地の大名行列が、江戸への参勤交代の旅路で必ずこの常盤橋を渡り、ここから本州へ向かう船に乗りました。オランダ商館長一行(カピタン)の江戸参府: 毎年、長崎の出島に滞在していたオランダ商館長(カピタン)一行が将軍に謁見するため江戸へ向かう際、長崎街道を通り、常盤橋で陸路を終え、関門海峡を船で渡りました。彼らが将軍への献上品として携えたものの中に、砂糖が含まれていた可能性は非常に高いです。
伊能忠敬(いのうただたか): 日本地図作成のために全国を測量した伊能忠敬が、九州測量の出発点としたのもこの常盤橋でした。シーボルト: ドイツ人医師で博物学者のシーボルトも、江戸へ向かう道中でこの橋を渡っています。
話題として、将軍献上の象: 享保14年(1729年)、第8代将軍・徳川吉宗に献上するためにベトナムから長崎に運ばれた白い象が、京都での天皇への謁見を終えた後、この常盤橋を渡ったという逸話も残されています。当時としては非常に珍しい異文化の光景が展開されました。
近代の面影と森鴎外、モダンな広告塔: 明治時代には、常盤橋のたもとに赤レンガを使ったヨーロッパ風の斬新なデザインの広告塔が建てられました。森鴎外の文学作品: 小倉に赴任していた文豪・森鴎外が、小説『獨身』の中で、この広告塔を「西洋から小倉に伝わった“東京にないもの”のひとつ」として紹介しており、当時の小倉のモダンな一面を今に伝えています。
常盤橋は、単なる歴史の遺産ではなく、日本の鎖国時代における東西の交通・文化・貿易の交差点として機能していた場所の物語を現代に伝えています。
関門クロス・シティ構想、研究会
株式会社壽興産、事業部&研究会への参加、ご意見、
ご相談、提携等は以下のアドレスでお気軽にどうぞ、
E-mail : info@kotobukikoosan.jp
事業本部長 寺本 征一郎